談話室 01 Guest ‒ 中村好文さん
「出会い、空白の時代、再会」
第1回目のゲストは、meie のふたりの大学時代の恩師であり、仕事上の師でもある建築家の中村好文さんをお迎えします。meie のホームページを制作するにあたり、この「談話室」というコーナーを発案してくれたのもじつは中村さんです。初回の今日は、中村さんとmeieのふたりの出会いからお話していきます。
― 中村先生との出会い
中村:いよいよふたりで設計事務所を開設するんだってね。おめでとう!
初めてふたりに出会ったのは、日本大学生産工学部建築工学科「居住空間デザインコース」(以下「居住コース」)の面接試験の時だったよね。面接が終った直後、ぼくが教授の宮脇さん(「居住コース」の創始者である建築家の故・宮脇壇氏)に「双子っていうのは面白そうだから入れましょう」と言い、宮脇さんも「そうだね」と応えて、ふたりはめでたく「居住コース」で学ぶことになった。
暁:あれから20年以上経つことになりますね。わたしたちは「居住コース」の7期生でしたが、応募人数が定員を超えていたので、中村さんからその話を聞いたときに、双子でよかったと思いました (笑)。
彩:双子で同じ大学の同じ学科に入るのは珍しい、とよく言われるんですが、実はわたしたち、大学受験のときはそれぞれ国立の違う大学を志望していて、暁は建築だったけど、私は工業意匠を学びたいと思っていました。母が理系の大学でありながら著名な建築家が女子学生を対象に創設した「居住コース」がおもしろそうだ、と思ったようで、念のため滑り止めで受けてみたらと勧めてくれたのがふたりで同じ進路を進むきっかけになりました。
実のところ、入学当初の頃はやはり工業意匠を学びたいと思って仮面浪人も考えましたが、ある先生に「建築を学んでいればいつでも小さいものをデザインすることができるけど、工業意匠を学んでも、建築のような大きいものはなかなか設計できないよ」と言われて、仮面浪人は早々に諦めました。
暁:ふたりで「居住コース」に入って建築を学んで、いまこうして中村さんとお仕事をご一緒させていただいていることを考えると、運命だったのかなと思います。
中村:「居住コース」で4年間学んだわけだけど、印象に残っている課題ってある?
暁:まず最初にル・コルビュジエの「小さな家」を題材にプレゼンテーションをしたのが印象的でした。他には沖縄の無人島「外離島」を敷地にして、風力や太陽光などの自然エネルギーだけで生活ができる休暇利用の集合住宅を設計する課題もありましたね。
中村:あのころぼく自身が太陽や風や雨などの自然の恵みだけで暮らせるエネルギー自給自足型の住の可能性を探っていたので、そんな課題を出すことになったんだと思う。
彩:中村さんが設計した「上総の家Ⅱ」の軸組模型を作って木構造を学ぶ課題や伝統的な民家を現代の住まいに再生する課題、3年生で取り組んだ集合住宅の課題なんかも印象的でした。私は鬼子母神を、暁は神楽坂をそれぞれ敷地に選んで集合住宅を設計しました。敷地は自分たちで自由に設定することができたので、あの時はふたりで都電荒川線の一日乗り放題のチケットを買って、ほとんどの駅で降りて町を散策してまわりました。そのなかでも鬼子母神はとくに雰囲気が独特で好きでした。その後も御会式という鬼子母神のお祭りに何度か足を運んでいます。
暁:私たちは映画が好きなので、名作住宅をテーマにして映画を制作する課題はとくに面白かったです。
中村:ふたりが映画好きだったことは知らなかったけど、ぼくもけっこう映画好きということもあって出題した課題だった。『住宅巡礼』というぼくの本の中から名作住宅をひとつ選んで短編映画に仕立てなさいという課題。今、新建築『住宅特集』の編集長をしている西牧厚子なんか、他のどの設計課題よりも面白かったって言ってたね。映画をつくる作業は建築設計に通ずるところがあって、とてもいい課題だと思ってたけど、なぜかこの課題はもう10年以上、出題してないね。指導する側に映画や映像に対する思い入れと愛情がないと成立しにくいからだろうな、たぶん。
暁:私たちは高校の同級生でもある同郷の友人と3人で組んで、ル・コルビュジエの「小さな家」を選びました。自分たちが選んだ住宅のコンセプトや特徴を読み解いて、それをどう表現するか、この住宅の素晴らしさをどう伝えるか、プレゼンテーション能力も求められる気がしました。
中村:あの映画のエンディングロールが素晴らしかったね。レマン湖の空にル・コルビュジェの声がかぶさるシーンに背中がゾクゾクしたこと、今でも忘れられない。暁、彩たちの映画を観ながら、しみじみ「いい課題を出したものだ」と思った。自画自賛だけど(笑)。
彩:大学2年生の頃から事務所のお手伝いをさせていただくようになりました。ギャラリー間での宮脇檀先生の展覧会用に『もうびぃでぃっく』の検討模型を作ったり、OZONEの展覧会用に中村さん設計の『扇ガ谷の住宅』のコンセプト模型を作ったこともありました。「もうびぃでぃっく」の模型は角材をつかって1/20くらいの縮尺で作ったのですが、持っていったら、大工さんがイメージしやすいと喜んでくださったのが印象に残っています。敷地条件とクライアントさんの要望を頂いて基本設計をやらせて頂いたこともあります。途中から所員さんにバトンタッチしましたが、ふたりでドキドキしながら現地調査に行ったのを覚えています。
暁:銀座のお蕎麦屋さんの模型作りをお手伝いしたときは、ファサードの雰囲気を表現するために模型材料を墨汁で染めたりしました。竣工後、中村さんがそのお蕎麦屋さんに連れて行ってくれたのですが、実際に出来上がった空間を目の当りにして感激したのを覚えています。
わたしたちはサークル活動やバイトをしていなかったので、家でせっせと図面を見ながら模型を作って、課題とはまた違うやりがいを感じていました。中村さんが設計した『扇ガ谷の住宅』や『市川の住宅』に連れて行って頂いたりもして、中村さんには大学の授業以外にもとても貴重な経験をさせて頂いていたと改めて思います。
中村:この10数年、学生に事務所に来てもらって、模型を作ったり、展覧会の手伝いをしてもらったりすることがなくなってしまったんだけど、暁、彩が学生だったころは、よくふたりに手伝ってもらったよね。意欲のある学生に設計の実務の現場を体験して学んでもらおうという気持があったからだけど、残念ながら、そういう意欲のある学生、見どころのある学生は本当に少なくなったような気がする。
― それぞれの修行時代
中村:大学を卒業してから8年後に再会して一緒に仕事をするまでの、われわれにとっての「空白の時代」、ふたりはどんな仕事をしていたのかな?
彩:実はわたしたち、そのまま中村さんの元で働けたらと思って、就職活動を全然やっていなかったんです 笑 わたしたち同様に中村さんの事務所で働きたいと思っていた同級生が、中村さんから「新卒はとらない」と言われた、という噂も耳にしたので、レミングハウスへの就職はあきらめたのですが。
暁:大学3年生の割と早い時期に中村さんから「事務所にふたりの席は用意してあるから」と言われた記憶があります。でも、そのあとレミングハウスの仕事が忙しくなって所員さんの数が増えていって、その席がいつの間にか埋まってしまったのだと私は認識していました。
中村:え?、そんなこと言ったっけ?、ぜんぜん覚えていないなぁ(笑)。「ぬか喜び」させちゃったわけだよね。それは申しわけなかった。ゴメン、ゴメン。
暁:それから中村さんはわたしたちに、「居住コース」の研究生になって、大学で勉強を続けながら中村さんの手伝いをすることを勧めてくださったのですが、まわりの友達が社会に出て働き始めているのを見て、自分たちもはやく実務経験を積みたいと思い就職活動を始めました。
彩:わたしは建築雑誌で気になる設計事務所を探して、舞台美術や映画のセットも手掛けている建築家の大塚聡さんに連絡をしました。もともと映画が大好きだったし、舞台美術にも興味があったので大塚さんとはとても話が弾んだのですが、そのときは席が空いていなかったので、欠員がでたら連絡を頂くということになりました。生活費を稼がなければならないのでデザイン事務所に勤めて主に店舗のデザインをしていたところ、大塚さんから所員が辞めたので一緒に働きませんか、と連絡を頂き、大塚アトリエで働くことになりました。
中村:大塚さんの事務所ではどんな仕事をしてたの?
彩:面接時に舞台美術に興味があると話していたので、最初にやらせて頂いたのは演劇の舞台セットの図面を描くことでした。寂れた路地裏のセットだったので、そういう雰囲気の路地裏に行って実測しながら図面を描きました。大塚さんは寺山修司の天井桟敷から唐十郎の状況劇場の流れを汲むアングラ劇団「新宿梁山泊」の座付き建築家だったので、新宿の花園神社や鬼子母神の境内で行われるテント芝居の確認申請のお手伝いなどもしました。
最初に担当した住宅は劇作家で演出家でもある某俳優さんの稽古場付き住宅でした。初めての現場だったので、大塚さんから「毎日、少しずつでも現場は進んでいるから、事務所に来る前に毎日現場に行くといいよ」と言われて、毎朝自転車で現場に通いました。
中村:それは建築家にとって、とても貴重な経験だったと思う。理解のあるボスの下でいい経験をさせてもらったね。
彩:はい。あのとき大塚さんに言われなかったら、その後、そのような時間を意識的にとることは難しかったと思います。たまにそのクライアントさんが来て現場を見ていることもあったのですが、あまりのオーラに怯んでしまい、自転車で現場の前を通り過ぎてクライアントさんが去るのを待ったこともあります 笑
当時在籍していた先輩所員さんにみっちり実務を教えて頂いたことも勉強になりました。ほぼ新卒状態で入ったので、まずはその先輩の担当物件の確認申請を手伝いながら要点をチェックしてもらったり、アルミサッシの図面はメーカーのCADデータをダウンロードするのではなく、まず自分の手で描いてみることでサッシの構成を覚えるように言われたり。その先輩所員さんは独立の準備を進めていたこともあり、わたしにきちんと引き継いでから事務所を辞められるように、とても丁寧に実務を教えてくれました。
中村:その事務所時代に印象に残った仕事はあります? 苦労した仕事とか。
彩:最後に担当した『高尾の家』は地下1階、地上3階建ての2世帯住宅で、さらに旦那さんの仕事場付きだったので、それまでに担当した住宅に比べて規模も大きく、且つ、初めての鉄骨造で苦労しました。大塚アトリエでは鉄骨造は珍しく、参考にできるような事例がありませんでしたので、本屋さんに行き、『はじめての鉄骨造』みたいな本を片っ端から買って勉強しました(笑)。
大塚さんからは「この事務所に勤めてもう4年も経つんだし、この現場は任せるから、基本的には自分で考えてやってみて」と言われていて、責任もこれまでの仕事以上に大きかったです。それまでに担当してきた木造の建築とは構造やおさまりが違う上に、大塚さんのこだわりも強かったので、それを実現するためにクリアしなければならない構造や法規上の課題が山積みで、現場の途中で大塚さんに「辞めたい」と直談判したこともありました。もちろん、辞められては困る、と言われましたが 笑。辞めるならこの仕事をきちんとやり終えてからにして欲しい、途中で投げ出してはいけない、と。
中村:まったくもって大塚さんは正しい!(笑)
彩:『高尾の家』のクライアントさんは竣工してから毎年、大塚アトリエのスタッフや友人を大勢家に招いて、お花見バーベキューを開いてくださるんです。お伺いさせて頂く度に苦労した日々を思い出します 笑。それでも、いつも初心に返ることができて、頑張ったことへのご褒美だと嬉しく思います。
中村:そのころ、暁はどうしてたの?
暁:わたしは大学を卒業して最初は住宅設計を中心にした事務所に3年勤めました。そこは注文住宅だけでなく大手ハウスメーカーの分譲住宅の設計も請け負っていたので、多いときで15物件の確認申請業務をこなしたり、なかなか忙しい事務所でした。でも、スキルは身に付くし、お給料が安定していたので割り切って働いていました。ふたりともアトリエ系の事務所に勤めたらお給料が安くて生活が厳しいかもしれないと思ったので。どんな仕事でもとりあえず3年は頑張ろうという気持ちでやり遂げて、その後、日建設計で働き始めました。
中村:「石の上にも3年」というけれど、設計事務所で1年、2年で辞める人も多い中、3年間勤めると決心して実行したのはえらいね。で、その日建設計ではどんな仕事をしてたの?
暁:スポーツクラブの仕様管理やリゾートホテルのスパ、銀行やオフィスの設計、クラブハウスの改修とか色々な仕事に携わりました。出張が多かったのでいつもトランクをガラガラ引いて動いていました。仕事は大変でしたがやりがいはあったので、頑張っていたら正社員にして頂いて、ますます夜遅くまで頑張る日々でした。そのころは彩とふたり暮らしだったのですが、夜は遅くて朝は早いから、一緒に住んでいたけどすれ違い夫婦みたいな生活でしたね 笑。きっとそのような生活に無理があったと思うのですが、結果、2年で10kgほど太りました。あの頃はわたしたちは双子と言えど、全然似てなかったと思います。母にはストレスが原因だ、とかなり心配されていました。
中村:10㎏!、それはすごい。あのころは顔もふっくらして別人のようだった(笑)。明らかにストレス太りだよね。結局、日建設計には何年在籍したのかな?
暁:途中から上司の異動についていく形で日建設計のグループ会社に転籍しましたが、トータルで6年くらいいました。やりがいもあったし、みんな真面目で優しくて、居心地の良い会社でした。でも、グループ会社に転籍してからはマネジメント業務が圧倒的に増えてしまって、自分がやりたい仕事とのギャップを感じるようになりました。
中村:ふたりともけっこう苦労してきましたね。その「苦難の時代」を通り抜けたおかげで、ひとまわりもふたまわりも成長したと思うけど。ふたりともその苦難の時代のあとで独立は考えなかったの?
彩:私は独立を視野に入れて、一級建築士の勉強に本腰を入れるために大塚アトリエを辞めて、某ハウスメーカーで派遣社員をしながら勉強することにしました。配属された部署が想像以上に忙しい部署で常にノルマを与えられ、仕事も大変でしたが、競争社会の中で人間関係も難しかったんです。
中村:おお〜、「苦難の時代」つづきますねぇ(笑)
彩 でも、その年にふたり揃って一級建築士の試験に合格したんです。たしか試験は3連休の真ん中の日曜日でした。あとから考えてみたら、それはひとつの人生の転機の日だったと思います。
中村:暗い雲の切れ目から一条の陽が差してきたわけね(笑)。
― 中村さんとの再会
彩:試験が終わって心に余裕ができたので、試験の翌朝、ふと最近の中村さんの動向をインターネットで調べてみたんです。そうしたらちょうど『as it is』(茂原にある中村さん設計の美術館)で中村さんの展覧会「come on-a my house」が開催中でした。ベッドから飛び起きて支度をして、すぐにふたりで茂原に向かったことを覚えています。
暁:お互い仕事も大変だったから、試験勉強から解放されて、こんなに清々しい朝は久しぶりでした。そのようなタイミングで久しぶりに中村さんの世界に触れて、忘れていた何かを思い出したような、なんとも言えない気持ちになりました。
彩:この展覧会の感想を中村さんに伝えようと思って久しぶりに中村さんに連絡をしたら、今度、竹中工務店の社内で講演会をやるから聴きにおいで、とお誘いを受けて、本当に久しぶりにふたりで中村さんに会いに行きました。
暁:中村さんが当時、軽井沢に所有していた小屋「LemmHut」の話が中心だったのですが、ふたりで釘付けになって夢中で話を聴いたのを覚えています。
彩:講演会後の打上げにも参加させて頂いて、中村さんから「今、なにをやっているの?」と聞かれて、某ハウスメーカーで派遣社員をやっていると伝えました。この頃には仕事も人間関係もだいぶ慣れてきていたので、このまましばらくお金を貯めて、独立する前に海外に行くのも良いかもしれないと考えたりもしていました。でもそれから割とすぐに、中村さんから「産休に入るスタッフがいるから、仕事を引き継いでもらえないか」とお電話を頂いたんです。
中村:そうだったね。ちょうど産休に入るスタッフがいたので、その仕事を引き継いでくれる人材を探していたところだった。まさに「渡りに舟」のタイミング! しかも10代のころからよく知っている彩だから、またとない人材だったんだよ。
彩:願ってもないお話だったので、派遣の仕事とか独立とか海外とか、すべて頭から吹き飛んでしまって、「是非やらせてください」と即答しました。実際は派遣社員の契約がすぐには切れなかったので、最初の数ヶ月はレミングハウスの仕事と並行して仕事をこなすことになって大変でしたが。
暁:わたしはその頃、まだ日建設計のグループ会社にいて、彩がレミングハウスの仕事に関わり出すのを見て、本当に楽しそうで、わたしもまた住宅の設計をやりたいなという気持ちを抱くようになりました。レミングハウスの旅行で彩がフランスに行くことになって、あのときはすごく羨ましかったな。わたしもル・トロネ修道院やコルビュジエのロンシャンの礼拝堂に行きたかった。そうそう、あのとき私の大きいトランクを貸したんだよね(笑)?
中村:そんな状態の暁からトランクを借りるというのはずいぶん酷(こく)な話だね。彩もなかなかやるよねぇ(笑)。でも、翌年だったかな、事務所のインドの旅行には暁も参加したよね?
暁:はい。悶々としているわたしの様子を見兼ねた旦那が「自分が本当にやりたい仕事をやったらいいよ」と背中を押してくれたので、会社を辞めて、半年くらい休憩していた時に、中村さんから「一緒にインド行かない?」と声を掛けて頂いたんです。
中村:そしてアーメダバードのホテルで新しい仕事の話をしたんだよね。
暁:はい。中村さんの部屋に彩とふたりで行ったら、わたしたちの故郷の岩手の人から住宅の設計依頼があるから、ふたりでやってみる?と声を掛けて頂いて、わたしも彩から2年遅れて中村さんとお仕事をご一緒させて頂くことになりました。
中村:そうやって、ふたりの足並みが揃うまでが長い道のりだったんだね。
しかも、The Long and Winding Road だったことが、今日、話を聞いていてよく分かりました。では、次回はレミングハウスでの仕事について話しましょう。
暁・彩:今日はありがとうございました。次回もよろしくお願い致します。